<ヴェーダ聖典を保持する学門・ジョーティシャ>

 

 

 

最近はジョーティシャ(インド占星術)に関する書籍やコンテンツも増えてきましたので徐々に認知されてきましたが、まだまだ西洋占星術の亜流のようにとらえられている側面もあるようです。 

なぜ、ジョーティシャの本質がこれほどまでに捉えがたいものなのかというと、ジョーティシャとは単なる「占い」というよりは「哲学」、あるいは「科学」だからです。

ですから「占い」という枠のなかでは正確にとらえることが出来ません。

これは例えば80.0kHzの周波数のラジオを聞こうとして82.0kHzに合わせたり、77.0kHzにチューニングしたりしているようなもので、明確な信号として受信することが不可能なのです。

しかし、ジョーティシャを「哲学」や「科学」として学びを進めて行くうちに「当たるも八卦、当たらずも八卦」の単なる占いというよりも、「私自身が宇宙である」、「私こそがすべてである」という体感を得て行くことでしょう。

 

自分を知って行く過程のなかにジョーティシャは位置づけられています。

使い古された言葉かもしれませんが、「自分を知るための地図」がこのジョーティシャで表されるクンダリー(出生時の星の配置を記した図)です。

ですのではじめのうちは、「自分の性格とは?」とか「自分はどのような人生を歩むのだろう」、「仕事や結婚、子供はどうなるのだろう」といった自らにまつわる疑問から歩みを始める場合が多いかもしれません。その後、周囲の人々のクンダリーを鑑定したり、世界情勢を分析したりするうちに、これはただの占いではないと認識せざるを得なくなるでしょう。

 

さて、ジョーティシャは、ヴェーダを学習するための準備として学ぶ学問である「ヴェーダーンガ(ヴェーダの六肢/ヴェーダの補助学)」のうちの一つです。

ジョーティシャについて語る前に、人類の宝たるヴェーダを認識する必要があるでしょう。

ヴェーダとは、知識を表す「ヴィド」という語根から派生したサンスクリットであり、人類史上、最古で最高の知識がおさめられた聖典の総称です。

それらはあらゆる教育機関で学ぶことができる一般的知識のみならず、人生の指南書とも言うべき「目覚めの智慧」をも内包しています。

しかしながら、このヴェーダを直接学ぶのはあまりに困難が伴います。読むだけでも何年も費やすでしょうし、理解するとなれば、途方もない歳月と膨大な精力を傾けねばならないでしょう。

そこで、ジョーティシャをはじめとするヴェーダーンガ(ヴェーダの六肢/ヴェーダの補助学)はヴェーダを学習する際に手助けとなる頼もしい相棒と言えます。

これら六種の補助学のうちの一つがジョーティシャなのです。

 

ところで、それほど偉大なヴェーダとはどのような聖典なのでしょう。

ヴェーダは人間の頭であれこれ考えて記された書物ではありません。例えば人が詩や小説を書くときには起承転結を計画して記すことがあります。ハリウッド映画などは観客の集中力が切れやすい平均的な時間帯を割り出して、その時間の直前になれば驚くような場面を用意したりします。

ヴェーダはこのような創作物とは違い、頭の中で計画したものではないということなのです。


ヴェーダとは悟りを開いた偉大な聖仙(リシ)
達が深い瞑想のなかで発見した智慧です。この「発見」という点も重要で、何か外の対象を分析していて徐々に得られたデータのようなものではなく、パーッと「観えてきた」、あるいは「聞こえてきた」、「降りて来た啓示」だったのです。このインスピレーションは五感ではとらえられないものなので「観られた」、「聞かれた」、「認識された」、「瞑想された」など様々に形容されます。

こでは「観える」という形容をご紹介しましょう。

 

ṛṣaya mantra draṣṭāra リシャヤハ・マントラ・ドラシュターラハ)

〔リシとはマントラを観る者のことである〕

  

「はっきりと観えてくるもの」なのでまったく疑いがないのです。ここでいう「知識」、あるいは「智慧」とは「観えるもの」なのです。

 

ヴェーダとは「知識の本」という意味のサンスクリットで、この語の語根は√vid -です。語根√vid -は「知る」という意味の動詞です。そして、それが名詞化されてできた「ヴェーダ」という語は「知識」という意味になります。そして、それが「知識の本」とか「知識の百科全書」という意味を表す語となりました。

 ヴェーダはあらゆる知識の源です。

 大昔から伝えられている智慧であるにも関わらず、現代も人類が役に立てているヨーガやアーユルヴェーダもこのヴェーダ文献から来ています。

 

ここで、ジョーティシャが含まれるヴェーダアンガについてご紹介いたしましょう。

ヴェーダーンガとは、「人格化されたヴェーダの六肢」に相当します。「肢」というくらいですからそれぞれの学問が人間の身体部位に対応しているのです。

ここで『パーニニーヤ・シクシャー』という文献において、六つの補助学がそれぞれ、人格化されたヴェーダ(ヴェーダ・プルシャ)のどの部位に該当するか述べられた節があるので、ご紹介しましょう。

  

छन्दः  पादौ  तु वेदस्य हस्तौ  कल्पोऽथ पठ्यते 

chandaḥ pādau  tu vedasya hastau  kalpo’ tha paṭhyate

 

ज्योतिषाम् अयनं चक्षुर्निरुक्तं श्रोत्रम् उच्यते ||(41)

jyotiṣām ayanaṃ cakṣur niruktaṃ śrotram ucyate  

 

शिक्षा घ्राणं तु वेदस्य  मुखं  व्याकरणं  स्मृतम्

śikā ghrāa tu vedasya mukhaṃ vyākaraṇaṃ smṛtam

 

तस्मात्  साङ्गम् अधीत्यैव  ब्रह्मलोके  महीयते ||(42)

tasmāt  gam  adhītyaiva  brahmaloke mahīyate

 

ジョーティシャのヴェーダ―ンガにおける位置づけを見てみると、jyotiām ayana cakṣur・・と記されています。

これは、ジョーティシャが身体部位のなかでも「目」に相当していることを表しています。ヴェーダーンガとは先ほどもご紹介しましたが、ヴェーダの身体、あるいはヴェーダの六肢とも訳されます。目がなければ身体全体を見ることは出来ません。ヴェーダーンガに相当する他の学問はそれぞれが口や手足に相当しますが、目がなければ自らの口や手足がどのような状態であるかも見ることはかないません。この点からもジョーティシャの重要性が理解できます。そのため、「ジョーティシャの知識がなければヴェーダの知識は不完全である」と述べられることもあります。

現に、ヴェーダのなかでも「真の自己を悟る知識」、つまり「解脱の智慧」であるウパニシャッド(奥義書)という部分には、ジョーティシャの知識が必要とされる場面が数多く表れます。

これらを読み進めていくうちに、ジョーティシャの知識なしにウパニシャッドを読むことは面白さが半減してしまうという実感を得るでしょう。

  

それほど、インド哲学においてジョーティシャが占める重要性は高いのです。したがっていにしえの聖仙(リシ)たちにとっては、ジョーティシャはマニアックな知識ではなく、むしろ普通の知識、すなわち常識でした。リシどころか、一般の人が学ぶ当たり前の知識であったと考えられます。こうした理由から、このジョーティシャの知識を前提としてすべての聖典が記されていますから、皆さんが今後学びを進めるうえで、ヴェーダの知識に触れるならばこのジョーティシャを最初に学んでいるかいないかでずいぶんと理解の度合いは変わってくることでしょう。

 

この文章をご覧になっているということは、「ジョーティシャがあなたを選んだ」ということです。私は何もしていませんが、ジョーティシャがあなたを呼びました。

 ジョーティシャに認められ、ジョーティシャに見守られている人が、今この文章を目にしているのです。

ジョーティシャは「光」です。「自分こそが光である」、これがジョーティシャです。どこかに輝いている神様がいて、その光を頼りにして奴隷のように生きている、これは自己の本質ではありません。「私自身が神であり、私自身が光である」、この点に目覚めることがジョーティシャなのです。

 

 

【続く】