<ジョーティシャのとらえ方 ~カルマという名のお荷物チェック~>
何のためにジョーティシャを学ぼうと思われたのか、問いかけてみますと「本当の自分を知りたい」、「迷いをなくしたい」、というお答えをよく耳にします。
このような意図は、ジョーティシャのみならずヴェーダ全体において重要な主題となります。
ジョーティシャとは「私こそが宇宙である」ということを唯一この肉眼で体験できる学問です。
確かにヴェーダにまつわる学問はどれも優れています。けれどもこの肉体を通じて前述の点を体験するのは少々困難を伴い、遠回りになってしまいます。
ここで実際にクンダリー(出生時の星の配置を記した図)を繙くならばその点も明白になるでしょう。
例えば太陽一つの位置をとってしても「この人は目が悪い」だとか「赤ら顔で汗っかきだ」とか客観的に目に見える表示が出てくるわけです。そうするとなぜ、そこまで当てはまってしまうのかという疑問が湧いてくることでしょう。
こちらで星によって「目が悪い」と表わされているものが、本人に確認すれば「本当に目が痛いのです」、「本当に手術しましたよ」などと答えを得たりします。
すると、この宇宙の地図で示されているものが、まさに今この瞬間、私の痛みとして現象化していることになります。そこで、「一体どうやってこれとそれとがつながっているのだろう?」という話になるのです。
もし「私」と「宇宙」が別のものであるというならば、一体「宇宙」が「私」に対して何をしているというのでしょう。ビームか何かを飛ばしているとでもいうのでしょうか。
そうではなく、「自分こそが宇宙」、もっと言えば「自らのなかに宇宙がある」のです。
そのことを時に肉体を痛めつけられるような経験をすることによって、また時には心の苦しみを感じることによってさえ、知ることになってしまうという学問がジョーティシャなのです。
一般的に「問題」と言われるような例ばかりを挙げましたが、否定的な現象は自覚しやすいのであえて取り上げました。
本当に自分がすべてであるとはっきりわかります。特に体感するのがカルマ理論です。ジョーティシャが経験される現象を正確に記述する理由にこのカルマがあります。
このカルマには三種類あり、ジョーティシャが示すのは「プラーラブダ・カルマ」と呼ばれる部分になります。
これは何かといえば、前世から持ってきたお荷物です。ここで重要な点は、ジョーティシャで記されるカルマは「私自身ではなく単なるお荷物」だということです。
ですのでジョーティシャの鑑定で否定的な結果を得たからと言って「絶対に苦しみから逃れられないんだ・・」などと考えないでください。
ジョーティシャは完全に結果を当てるための学問でもありません。
また、ある神話によってジョーティシャは完璧に当たるものではないという理由について述べられていますのでここでご紹介しましょう。
ある時、ジョーティシャの知識を持つ聖者がシヴァ神(大黒天)のもとを訪れました。そこでシヴァは「私の妻のパールヴァティ―がいないのですが、どこへ行ったか、ジョーティシャを使って見て頂けないだろうか」と依頼しました。
聖者は「お安い御用ですよ」とさっさとジョーティシャを繙き、このように答えました。「あなたの奥様はご入浴中で、素っ裸でいらっしゃいます。ですからこちらにいらっしゃることはできないのです」と。
シヴァ神は「それなら仕方がない。パールヴァティ―が戻ってきたら、そなたの鑑定が正しかったかどうか、確認してみるとしよう」といってパールヴァティ―女神の帰りを待ちました。
パールヴァティ―女神がお戻りになるとシヴァ神はさっそくこう尋ねました。「パールヴァティーよ。あなたは先ほどまでお風呂に入っていて裸だったからこちらに来れなかったそうだね。このジョーティシャが教えてくれたんだよ」
それを聞いたパールヴァティーは驚きと怒りに震え、「このジョーティシャという学問ではこんなプライベートなことまで分かってしまうのか。ましてや女性が裸でお風呂に入っていることまで分かってしまうというのはあまり良いものではなかろう。私はジョーティシャに呪いをかけて、完全に見えてしまうことのないように、完璧には当たらないようにしてやります」と言って呪詛をかけてしまいました。
このように聞けば単なる神話であるかのようですが、ここからジョーティシャが学ぶべき点もあります。
ジョーティシャとは実際にクンダリーに現れていることを歯に衣着せぬ言葉でベラベラと伝えるものではないということなのです。たとえ真実であっても、相手を傷つけるようなこと、ましてやプライベートをほじくり回すようなことはしてはいけませんよ、という教えなのです。
病気や本人が触れられたくないトラウマなど、この世で一般的に問題とされていることを相談者が聞いてもいないのに伝える占い師もいますが、そのような方と出会ってしまったなら「この方は少し不勉強なのかな?」という感じで真に受けずに放っておくと良いでしょう。
このように人に対しても自分に対しても、現象を映し出すスクリーンから一歩引いて観ることが大切です。
この肉体すら自分のものではなく、その元素は自然界に属するものであり、先祖や両親の力によって預かった恩恵です。
存在するからには必ず意味があり、この世のものには必ずコインの裏表のように闇と光という両側面があります。
つまり悪いところもあれば良いところもあるわけです。
その上、ジョーティシャで表示されるのは「プラーラブダ・カルマ」、すなわち前世から持ってきたお荷物なわけですから、中にゴミが入っていれば捨てればよいし、ごちゃごちゃになっていれば整理すれば良いのです。
前世からの持ち物ですから入れたことすら忘れている「モノ」も多く、今は興味のない変な雑誌なども入っていたりするのです。それゆえ、いちいち暗い気持ちになったり、「もう治らないのかも」と絶望感にひたる必要もありません。
自分が詰め込んだ持ち物ですから手放すことができますし、もしどうしても捨てられない「モノ」があったとしても、その「モノ」を理解することによって実は非常に活用できるのです。
これは本人が欠点と感じている部分が実は重要な個性に相当していることに起因します。
ジョーティシャの「ジョーティ」という言葉は「光」を意味しますので、その目的は闇のなかから光を探すことなのです。
この点を試みることがなければジョーティシャとしての意味を成しません。
私たちがわざわざ闇を創造したのは、光である真の自己を再発見するためです。
【続く】